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平成13年(ワ)第2870号、平成14年(ワ)第385号損害磨償請求事件
原  告  ○ ○ ○ ○外62名
被  告  小  泉  純一郎 外1名


                     準備書面(原告ら第6回)

        
                                     2003年4月25日
千葉地方裁判所
  民事第5部合議B係  御 中

                             原告ら訴訟代理人弁護士  ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
                                   同           ○  ○  ○  ○
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第1章 靖国神社の一貫性
第1 はじめに
第2 神道指令 〜「政教一致」から,「政教分離」へ〜護国神道体制の解体
第3 戦後も変わらない靖国神社の一貫した教義
第2章 靖国神社の国家護持運動の進展と挫折
第1 国家護持運動とその目的〜遺族達の戦後
1 「神道指令」「政教分離」が,遺族に与えた影響
2 日本遺族厚生連盟の結成
3 遺族援護法の制定・改正,恩給法の改正
4 国家護持運動のはじまり
第2 国家護持法案の審議とその挫折
1 日本遺族会の成立と国会での審議
2 国家護持法案提出にいたるまで
3 国家護持法案提出後の攻防
4 国家護持法案の挫折
第3章 「公式参拝」路線の登場と経過
第1 国家護持路線の変化と「公式参拝」路線の登場



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1 国家護持路線の変化
2 表敬法案を巡る動き
3 「私的参拝」という虚構
第2 「公式参拝」の経緯
1 現職首相の8・15靖国参拝
2 首相による初の8月15日「公式参拝」と私的参拝4条件
3 なし崩しにされる4条件
4 続く首相の参拝
5 靖国懇の設置と報告
6 中曽根首相の「公式参拝」
7 首相参拝に対する反対運動
8 「公式参拝」路線の挫折
9 そして現在
第3 A級戦犯合祀の意味するもの
1 A級戦犯とは
2 A級戦犯合祀
3 国内外の批判の声
第4 靖国神社参拝の意図はどこにあるのか
第4章 靖国神社を巡る戦後市民運動の発展
第1 住民訴訟の提起
1 総論一市民の声
2 津地鎮祭訴訟
3 自衛官合祀拒否違憲訴訟
4 忠魂碑を巡る違憲訴訟
5 靖国神社を巡る違憲訴訟
6 2000年以降も立ち上がる住民訴訟
7 まとめ
第2 度重なる違憲判決
1 総論
2 下級審における違憲判決
3 首相の「公式参拝」に対する違憲判決
4 最高裁大法廷,愛媛玉串料住民訴訟違憲判決
第3 結語

第1章 靖国神社の一貫性
第1 はじめに
 戦前戦中,国民は自らを「国体」の原理の実現という国家目的のための道具
にすぎない存在であると信じ込まされた。その精神的支柱として機能したのが,
靖國神社(以下,「靖国神社」と記す)であり,その詳細は準備書面4で主張
したとおりである。戦後は,神道指令及び憲法第20条の政教分離原則により,

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制度上,国民は国体から解放され,靖国神社は純然たる一私法人にすぎない宗教法人となった。
 しかし,それにもかかわらず,靖国神社は,戦前と変わらない一貫性を持った存在として今に至り,そのことに他の宗教団体とは異なる特別の意味を持たせようとする人々が存在する。本章では、靖国神社の一貫性の背景,内容について論じる。

第2 神道指令〜「政教一致」から,「政教分離」へ〜国家神道体制の解体
1 神道指令による政教分離
 敗戦により,連合国が日本を占領したが,1945年11月1日付で連合国は占領軍当局に対し「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」を発した。この中に「日本の軍国主義的及び超国家主義イデオロギーと宣伝とのいかなる形式における弘布も禁止され,且つ,完全に抑制される。貴官は,日本政府に対し国家神道施設への財政的その他の援助を停止するように要求する。」指令が含まれていた。これを受けて,占領軍総司令部(GHQ)は12月15日午後,戦後社会にきわめて大きな影響を与えた「国家神道(神社神道)に対する政府の保証,支援,保全,監督並びに弘布の廃止」,いわゆる「神道指令」を出した。この「指令」は4項目からなり,国家神道体制を解体し,近代国家における普遍的な価値である政教分離原則を日本に根づかせることがその目的であった。
 「指令」の第1項では,神社神道に対する国家や官公吏などの保証・支援・保全・監督の禁止,公の財政的援助の停止,国家神道の普及に大きな力を発揮した内務省の外局神祇院(1940年設置)の廃止,すべての公立の教育機関における神道教育の禁止,教科書からの神道的教義の削除,役人の資格での神社参拝の禁止など多岐にわたり,細かな措置を命じていた。また,国家神道のイデオロギーを伝える重要なテキストと目された『国体の本義』(1937年,文部省)などの刊行物頒布の禁止も求められていた。第1項は,国家による神社神道に対するあらゆる庇護を徹底的に止めさせ,侵略戦争の精神的動員装置として機能した国家神道を根絶しようという狙いから規定された。
 さらに,第2項では,政教分離原則の徹底化という,この「指令」の大きな目的が示され,「本指令の目的は,宗教を国家より分離するにある。宗教を政治的目的に悪用することを防止し,正確に同じ機会と保護を与えられる権利を有するあらゆる宗教,信仰,信条を全く同じ法的基礎の上に立たしめるにある」と定められた。
 「神道指令」の核心である厳密な政教分離は,翌年に制定された日本国憲法20条の信教の白由,政教分離の原則と,それを財政的に支える89条に継承される。
2 政教一致体制の解体
 「神道指令」によって,政府は関連のさまざまの法規の改廃を余儀なくされ,国家と神道との特別な関係はことごとく絶たれていった。1945年12月2  

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8日には,戦争遂行のために宗教の統制・動員装置としてつくられた宗教団体法(1940年施行)が廃止され,新たに宗教法人令が公布されて,宗教団体が自主的な届けによって宗教法人になれる道が用意された。翌46年2月2日,国家神道の絶頂期を象徴する神祇院が廃止され,神社関係のすべての法令が改廃され,また官国幣社などの社格制度も同日付で廃止された。全国の神社はこの日以降,宗教法人令による一宗教法人とみなされ,別格官幣社だった靖国神社も同様で,6ヶ月以内に届け出がなけれぱ解散したものとされることになった。
 これより先,46年1月1日,昭和天皇はGHQなどとの合作である「国運振興の詔書」を出し,自らの神格を否定した。いわゆる「人間宣言」である。こうして国家神道体制は,GHQの非軍事化・民主化・人権確立の占領政策の中で解体され,前述の46年2月2日は,「日本の宗教史にながく記念されるべき日」(村上重良「国家神道」)となった。
 1946年11月3日,帝国憲法改正という形式をとって日本国憲法(以下,「憲法」という。)が発布された。そして,憲法は,連合国指令にかかる前記政教分離(国家神道廃止)の原則を民主的に追認し,第20条をもって政教分離原則を定め,二度と再び政府の策謀(例えば国家神道を復活させようとしたり,軍国主義思想を広めること)によって戦争の参加を起こさせないことを宣言した(憲法前文)。

第3 戦前と戦後の靖国神社の一貫した教義
 既に述べたように,靖国神社は国家神道の成立とともに,明治以後創立され,国家神道体系の頂点に位置し,古来の神社神道とは明らかに異質の,天皇の「大御心」に基づいて創立された,国のため戦死した者の勲功顕彰のための宗教的施設であった。
1 継続された創建の趣旨
 1945年12月28日に公布された宗教法人令によって単立の宗教法人として出発した靖国神社は,1951年4月に施行された宗教法人法によって,翌1952年8月1日付で宗教法人の設立公告をし,9月に東京都知事の認証を受けた。これに伴って「宗教法人『靖國神社』規則」と「靖國神社社憲」が制定された。この「規則」第3条では,靖国神社の目的を「本法人は明治天皇の宣らせ給うた「安国」の聖旨に基づき,国事に殉ぜられた人々を奉斎し,神道の祭祀を行い,その神徳をひろめ,本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し,社会の福祉に寄与し,その他本神社の目的を達成するための業務を行うことを目的とする。」と明記し,靖国神社の宗教団体としての性格を語り,創建の主旨と伝統を,戦後も一貫して引き継ぐことを宣明している。
 また,「社憲」の前文には,「本神社は明治天皇の思召に基き,嘉永6年以降国事に殉ぜられたる人々を奉斎し,永くその祭祀を斎行して,その『みたま』を奉慰し,その御名を万代に顕彰するため,明治2年6月29日創立せられた神社である」とある。靖国神社は「天皇の神社」であると言われるが,その理


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由の一つは,創建以来,一貫して明治天皇の「聖旨」に基づいて英霊の奉斎(つつしんで祀ること)を行ってきたからで,戦後も,それに従って祭祀などを執り行うなどの創建の趣旨を継承していくこと明らかにした。この「聖旨」の意味について,岩手靖国違憲訴訟で証人神野藤権宮司(当時)は,「明治天皇の言われたことだから,非常に尊い,神聖だというように考えています。」と述べている。
 また,後に見る国会論議の中で池田良八権宮司(当時)は,靖国神社と天皇の関係の重要性について,概略下記のとおり述べている。
 「靖国神社は,明治元年5月10日の太政官布告に基づいて御創建されましたが,その中に,国事に倒れたる者をお祭り申し上げて,そのお名前をいつまでも残し,みたまをお慰めしようということがあり,それが一番の根本になっておるのであります。それによりまして,明治,一月の臨時大招魂祭を執行せよということを(陛下が)仰せ出されたのであります。そのときの仰せ出された御趣意は,御創立の御趣意と変わらないのであります」(55年7月23日,衆院・海外同胞引揚及遺家族援護に関する特別委員会。以下,「遺家族援護特別委」という。)。
2 以上のように,靖国神社は一宗教法人となったものの,その本質自体は以下の通り,戦前から一貫した性格を継続している。
(1) 戦後の靖国神社も,国家神道に由来する宗教的施設であり,戦没者,戦病死者,公務,法務死亡者等(以下,「戦没者等」という。)を神霊として崇めることにより,戦没者等を他の死亡原因とは峻別し,戦死などを美化し気高いものとして賛美している点で戦前と全く変わらず,その歴史的な意味も加わって軍国主義的性格を残している。
(2) 前記宗教法人「靖国神社」規則第3条にいう「明治天皇の宣らせ給うた『安国』の聖旨に基づ」くというのは,現天皇に連なる天皇家祖先の大御心にその存在基盤を置き,日本国の象徴である天皇との結びつきを求めていることが明らかであって,これは既述した国家神道の系譜にほかならない。
(3) また,戦没者等を神道祭祀の方法で,人霊ではなく「神霊」として祀っていることも戦前と同じである。
 戦後も,戦没者等は「霊璽簿」に記されて合祀されたままであるが,これは戦後になって遺族が改めて合祀を委託したものではなく,国家神道・軍国主義に則って国家や靖国神社が一方的意思によってなした戦前の合祀をそのまま承継しているものである。現に,靖国神社はキリスト教・仏教,韓国・朝鮮人をはじめとする遺族からの合祀取り下げ要求を頑として拒否している。
 それのみか,靖国神社は「平和条約第11条により死亡した者」を合祀対象者の中に含め,1978年10月,「国事殉難者」として東条英機らA級戦犯者14名を密かに合祀した。また,いわゆる戦争犯罪者として処刑された1,000名余の者を「昭和殉難者」として合祀している。この問題については,別途後述する。
(4) 靖国神社は,国事殉難者を「神霊」として崇拝する極めて特異な存在であ
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るが,戦没者等の人霊が神霊に転化されるためには,軍国主義の下での戦死を「天皇陛下のための死」としてこれを賛美し,かつ天皇を最高の祭祀者に戴いて神道祭祀を施すことが不可欠である。
 したがって,神霊崇拝は,戦争賛美と天皇祭祀の統合そのものであって,靖国神社が靖国神社たらんとする限り,常に戦前の国家神道的性格,軍国主義的性格を継承し続けることを本質とするのである
3 天皇との結びつき
 靖国神社と天皇との関係は上述したところにもあらわれているが,靖国神社が天皇との結ぴつきを戦後も継続して第一においていることは,恒例の祭儀に現れている。
 「社憲」第4条の「恒例祭」の中には,「建国記念祭」(2月11日)「天皇御誕辰奉祝祭」(4月29日。ただしこれは昭和天皇時代の祭名で,現在は「昭和祭」。現平成天皇の誕生日の12月23日が「天皇御誕辰奉祝祭」),「明治祭」(11月3日),そして第6条の「恒例式」の中には,「孝明天皇後月輪東山陵逢拝式」(1月7日)が加えられている。
 靖国神社にとって最も重要な祭典は,春秋の例大祭,それに招魂祭である。例大祭は,他の神社では年1回である。ところが,靖国神社の例大祭は,東京招魂社時代に年3回から4回行われていた。その後,1879年6月に別格官幣社に列せられ,靖国神社となってから春秋2回となり,5月6日と11月6日と決められていた。
 明治から大正へと「代替わり」した直後の1912年12月に,春季例大祭は4月30日,秋季例大祭は10月23日に変更され,天皇の承認を得た。4月30日は明治天皇の「日露戦争凱旋観兵式」が,10月23日は「同凱旋観艦式」が行われた日にちなんでいた(『靖国資料編上』)。
 しかし,敗戦後の46年10月に春秋の例大祭日は,春が4月23日に,秋が10月18日に変更された。その理由は「近く戦争放棄を宣言せる新憲法の発布を見んとする時,新発足の途上にある当神社に於て,この両日(4月30日,10月23日)を例祭日として存続せらるるは相応しからず…今後に於ける我が国進展の指針たる平和かつ民主的思想の上に立脚し」たからという(『靖国資料編上』)。この例祭日の変更について靖国神社が,当時の宮内省の祭儀担当,式部頭・武井守茂から「例祭日改定に関する件,了承致し侯」という文書を受け取り,10月11日,新たな例祭日が決まった。
 靖国神社境内の第二鳥居に近く,拝殿に向かって右側に,古ぼけた横長の看板が掲げられ,「例大祭日 4月22日 10月18日 勅裁如件 靖国神社」と記されている。天皇が例大祭を裁可したことを意味するこの「勅裁如件」の文字が,靖国神社の天皇との関係を静かに語る。なお現在は,春の例大祭の場合は,17日から20日までと1日長くなっている。
 天皇の靖国神社への初参拝がきっかけで,翌53年3月16日に「立太子礼」を11月に控えた皇太子(現平成天皇)が初参拝した。さらにこの年10月の例大祭から,「勅使参向」(天皇からの使い)が復活し,以後例大祭ごとの「勅

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使参向」が恒例となった。かつては「(例大祭)当日祭には必ず勅使がおいでになり,天皇陛下よりの御幣帛をお供え」(靖国顕彰会『靖国』)することになっていたのである。
 こうして天皇と靖国神社の結びつきは,占領の終結を待っていたかのように復活され、天皇の靖国神社参拝は,A級戦犯合祀を経る75年11月まで続いた。
4 合祀の決定権
 靖国神社の宗教行為の核心は,「すでに祀られている神々に新たに戦死者等を合わせて祀る」合祀である。国事に倒れた戦没者等を祭神として祀ることは,明治天皇の意思とされ,靖国神社創建の柱である。だから天皇が参拝する臨時大祭は,靖国神社のいわばメイン・イヴェントであった。
 ここで,きわめて重要な問題は,この合祀の決定権は本人や遺された家族にはなく,国家が独占していたという事実である。「戦没者等は国家のもの」であって,死者や遺族個人の宗教や信条に関係がなく,選択の自由もなかった。
 しかし敗戦後には靖国神社が国家から分離され,一宗教法人になったため,戦前・戦中と同じように戦没者等の祭神の合祀を続けるには,戦没者等調査を含めて,遺族の了解を得るなどの手続きが、当然不可欠なはずであった。しかし、ここで,「靖国問題」の根幹に関わる重要な問題が生じる。
 戦後の靖国神社の合祀対象者は,大別すると「軍人軍属」と「準軍属及ぴその他」となっている(国立国会図書館調査立法考査局『靖国神社問題資料集』)が,実際の合祀者は,この対象者のうち,遺族援護法によって公務死と認定された軍人・軍属・準軍属らとなっている。確かに、明確な合祀基準が公表されているわけではないが,靖国神社は「当神社に合祀申し上げて居る241万余の御祭神中,唯一柱の方と雖も,国家機関が遺族援護法に基いて,戦没者,戦病死者,公務,或は法務死亡者等の何れかに,法的決定が下されない儘御祀り申し上げて居る方は絶えて無い」(靖国神社社報『靖国』377号,86年12月1日)というように,合祀基準が遺族援護法の公務死認定にあることをほぼ認めている。そこから,国家が「A,B,C級」戦犯刑死者も他の一般戦没者と同様に公務死と認め,援護の対象者にしたことによって,「靖国神社は当然のことながら合祀申し上げねばならぬ責務を負ふことになった」(靖国神社社務所『靖国神社をより良く知るために』92年)という認識が生まれた。後に国際的な問題になる「A級戦犯」合祀は,靖国神社としては「責務」という認識を持っていたわけである。こうして,靖国神社は59年4月に346人,同年10月に479人,66年10月に114人の計939人の「BC級戦犯」刑死者・獄死者を合祀した(茶園義男「戦争裁判[A級BC級]刑死者911名一覧」『別冊歴史読本』15号,1993年8月)。
 しかし公務死と合祀が一致しない例もある。その一つが旧植民地出身者にかかわるケースである。旧植民地出身者や国内の一般空襲被害者への補償を含めた経済的な援護は現在に至るまで放置されたままで,戦後政府は「戦後補償」でも日本人の軍人・軍属優先の,かつ排外主義的な「帝国精神」を継承してい

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る。しかし,日本の侵略戦争に動員され,殺されたり戦病死した旧植民地出身の遺族は,遺族援護法の対象から外されているにもかかわらず,死没した肉親の中には靖国神社の英霊とされ,合祀されている人たちがいる。また日本の戦争責任を肩代わりさせられて刑死した朝鮮人・台湾人の「BC級戦犯」の人たちも,靖国神社の祭神になっている。さらに,敵前逃亡刑死者や自殺者などは,70・71年の遺族援護法改正で援護の対象になったが,逆に合祀対象から外されている。
 なお,靖国神社に合祀されている約246万人は,軍人・軍属・準軍属ぱかりではない。米軍の潜水艦の魚雷攻撃で撃沈された沖縄の疎開学童船「対馬丸」の子どもたちや,交換船「阿波丸」の乗船者,またソ連の侵攻によって樺太(サハリン)で自決した電話交換手らも含まれている。もちろんこうした人たちも国との「雇用関係にあった」として援護法の対象になっている。
 このように合祀に関しては、「國に役立った者」という靖国神社独自の観点から靖国神社自身がその決定権を握り、遺族の了解を得ることなく合祀が行われている。

第2章 靖国神社の国家護持運動の進展と挫折
第1 国家護持運動とその目的〜遺族達の戦後
 以上のように,その性格を変えない靖国神社と,徹底した政教分離原則を採用した日本国憲法のはざまで,「再軍備を達成するために,靖国を利用したい」と考える人々と,国家護持を求める遺族の要望とが合致し,国家護持運動が始まる。
 そしてそれは,靖国神社の宗教性を克服しようとする「靖国法案づくり」へと結集する。
1 「神道指令」「政教分離」が,遺族に与えた影響
(1).精神的慰謝の装置の消滅
 1945年12月の「神道指令」を境にした靖国神社の制度的変容は,戦没者等遺族に多大な精神的影響を与えた。
 いとおしい肉親が戦死という不条理な死を強いられたとき、遺族が,その事態をどう受け止めていいのか分からず、混乱の極の中に陥らされたことは当然である。戦中の国家は、その肉親の死を「英霊」として褒め称え,感謝し,祀った。このようなシステムの中で,遺族は国家によって肉親が殺されたのが実態であっても,精神的に慰謝されたような気分になり,あるいはそこに救いを見出した。靖国神社への合祀は,行き場のない遺族の怒りや悲しみを回収し,「被害者意識」を抑えさせて,「国のために役に立った犠牲の意識」へと転化させたのである。
 もっとも,そうした国家のスリカエにはどうしても納得できな人々も存在し,だからこそ,靖国神社の招魂式に招かれた遺族の中から鳴咽とともに,ときに一人「人殺し」「我が子を返せ」という声も上がったのである(村上重良『靖国神社』)。


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以上のように、国家による合祀というシステムは,単に国民を戦争へと動員しただけでなく,理不尽な死に対する国家の責任を回避するための大掛かりな装置としても、戦前、戦中は機能していた。
 しかし,その遺族にとっての精神的慰謝の装置は,敗戦によって崩れた。しかも,46年11月1日には,政教分離の見地から,「地方公共団体主催の公葬などは認められない。」という内務・文部両省の次官通達が各都道府県に出されるに至った。
 このように「靖国神社」「合祀」という戦前・戦中の遺族に対する公的な精神的慰謝のシステムは政教分離の原則によって消滅した。そして、遺族に対する慰謝の責務は、国の謝罪と補償により行われるべきであった。
 しかし、国はその謝罪と補償を何ら行わなかった。そして、靖国神社は、その国の不作為を利用して、遺族会の結成に向けて暗躍したのである。
(2) 経済的救済の装置の消滅
 敗戦までの天皇制国家は,戦没者等を名誉の戦死として誉め,英霊として祀るだけでなく,遺された家族に対して経済的にも手厚い援護をした。つまり,靖国合祀と経済的援護が一体となって国民に「天皇・国のための死」を受容させていたのである。
 経済的援護の中心的な制度が軍人恩給だった。GHQはそこにメスを入れ,45年11月24日,非軍事化の占領政策の中で,軍人恩給制度等を停止させる「恩給及び恵与」という覚書を発した。政府はこの覚書きに基づき46年2月1日(国家神道体制が解体される前日)に「恩給法の特例に関する件」(勅令68号)を出し,軍人・軍属とその遺族に対する恩給を停止した。
 この措置が,戦没者等遺族の経済的基盤を直撃した。このため勅令68号の直後から,遺族を中心に国による経済的な援護を求めるさきまな組織づくりが追求され,戦争犠牲者遺家族同盟,戦争犠牲者救援会,戦争犠牲者遺族同盟などの団体が登場した。
2 日本遺族厚生連盟の結成
 一方,遺族の組織づくりに,靖国神社嘱託で,元海軍中佐の大谷藤之助が全国の遺族を訪ねて,その結成を働きかけた(「日本遺族会15年吏)。46年6月に東京・京橋で,思賜財団・同胞援護会(総裁・高松宮,理事長・館哲二,同年4月結成)の協力で,初めて戦争犠牲者遺族大会が開かれ,また翌47年5月にも,東京・丸の内で,第2回の大会が開催され,32都道府県から67名の代表が参加した。さらに同年7月には,全国平和連盟東京都本部という組織の呼びかけで,33都道府県から遺族代表が集まったが,このときには全国組織結成には至らなかった。こうした経過を経て,同年11月17,18の両日,全国から135名の遺族が参加して東京・神田で開かれた会議で,日本遺族厚生連盟が結成された。これが,1953年に発足する財団法人・日本遺族会の前身である。理事長には元貴族院議員で,静岡県遺族会会長の長島銀蔵が選出され,本部事務所を神奈川県庁に,連絡事務所を靖国神社に設けることが決まった。この設立会議に


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は靖国神社嘱託の大谷が出席し,理事長に就任することになる長島を紹介したと日本遺族会の年史に記されている。発足時から,遺族会と靖国神社とは密接なつながりのあったことがうかがえる。
 ただ,このときの日本遺族厚生連盟は,GHQの指導によって,@戦没者遺族だけではなく,社会に貢献して亡くなった遺族も加える,A遺族の相互扶助を目的にする,B元職業軍人などは役員にしないなどという条件がつけられた。したがって,戦没者等を称えるという戦前・戦中の靖国思想である「英霊の顕彰」は当初の組織の性格にはほとんど見られない。何より,戦没者等遺族の経済的困窮を救う施策の実施が日本遺族厚生連盟の最大の目的であった。
 しかし,この遺族団体の性格が徐々に変質していき,それに伴う形で国家と宗教の厳密な境界が少しずつ溶解し始めるのである。
3 遺族援護法の制定・改正,恩給法の改正
 平和条約が発効した2日後の52年4月30日,戦傷病者戦没者遺族等援護法が公布施行され,戦後初めて軍人・軍属やその遺族に年金及び弔慰金が支給されることになった。
 援護法第一条には「国家補償の精神に基づき軍人・軍属等であった者またはこれらの者の遺族を援護する」とその目的が掲げられた。この「国家補償の精神」は日本遺族厚生連盟が遺族援護運動の中で強く求めていたところだが,遺族援護法の適用は「日本国民」に限られ,かつて日本国家によって「帝国臣民」とされた旧植民地出身者は,日本の「国家補償の精神」から除外されてしまった。
 53年8月,恩給法が改正され,停止されていた軍人恩給が復活した。これに伴って軍人・軍属やその遺族に対する軍人恩給や公務扶助も復活し,遺族援護法の対象になっていた多くの遺族に恩給法が適用されていく。一方,この年,遺族援護法も改正され,それまで除外されていた戦犯刑死者や獄死者も公務死と認められ,戦犯遺族も一般戦没者遺族と同様に国家から経済的援護を受けられるようになった。これにより,戦犯が靖国神社の合祀者に加えられる道が開かれたのである。
4 国家護持運動のはじまり
日本遺族厚生連盟は,1952年1月20日の第3回全国戦没者遺族大会において,「国および市町村が主催して戦没者の慰霊行事を行い,その費用は国が負担すること」を要求項目として決議をなした。これまで日本遺族厚生連盟は,相互扶助や生活援助を主たる目的に掲げて活動してきたが,この第3回大会のころに,援護法制定の見通しが立ったことから,戦没者遺族の関心は,戦没者の公的慰霊行事に向き始めたのであった。この決議の中には,「靖国神社」や「護国神社」の名は上がってはいなかったが,実質的に見れぱ,この決議こそが靖国神社と国家との結ぴつきの復活を求める動きの端緒といえるものであった。
 そして,遺族援護法が制定された直後の52年6月の日本遺族厚生連盟理事会・評議員会では,「戦犯処刑者,学徒,国民義勇隊の霊を出来れぱ靖国神社


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に,少なくとも各地方の護国神社に祭るよう努力する」などの運動方針の大綱を決定し,ここで初めて靖国神社・護国神社の名を上げている。
 また,天皇が靖国神社に戦後初参拝した直後の52年11月6日に開かれた第4回全国戦没者遺族大会において,「靖国神社並に護国神社の行う慰霊行事はその本質にかんがみ国費又は地方費をもって支弁するよう措置すること」と決議した。これは,事実上の靖国神社国家護持要求であり,まさしく後の日本遺族会を中心に進められる靖国神社国家護持運動の始まりであった。
 もっとも,「国家護持」といってもその内容は様々で,国営化,国家管理,国家護持など,いろいろな言われ方をしたのはそのためである。

第2 国家護持法案の審議とその挫折
1 日本遺族会の成立と国会での審議
 53年3月に,日本遺族厚生連盟が財団法人・日本遺族会になると,寄付行為の中に「慰霊救済の道を開く」が加わり,さらに同年10月には「英霊の顕彰」が第1の目的に規定された。
 日本遺族厚生連盟(日本遺族会)の強力な政治への働きかけにより,52年7月30日には,衆議院遺家族援護特別委員会にて,初めて靖国神社合祀問題が国会で取上げられた。そして55年ころからは,合祀経費の国家負担の可否について,あるいは合祀の前提となる戦没者調査に関わる問題が議論されるに至つた。
 まさに,このころは,戦後最初の右傾化の時代であった。まずは54年7月には憲法の戦力不保持の規定を破り陸海空三軍を持つ自衛隊が発足し,同年末に発足した鳩山一郎内閣は憲法改正を正面に掲げた。そして,教科書への攻撃も強まり,これらの動きと連動して靖国神社への国家関与を促す政治的な圧力も強まっていったのである。
 日本遺族会も,56年1月25日の第8回全国戦没者遺族大会において,「靖国神社・護国神社は,国又は地方公共団体で護持すること」と決議し,「国家護持」という言葉を用いてその方針を明確にしたのであった。これ以降,日本遺族会は大会ごとに国家護持を決議していく。これはまさに戦没者等遺族の経済的な要求が遺族援護法と軍人恩給の復活という形で制度化され,運動の目的が靖国神社に絞られたことを示していた。
 もっとも,56年いっぱいを一つの区切りにして,「靖国問題」は国会からいったん退場した。というのも,神社本庁が強く働きかけていた「紀元節」の復活や,後の「建国記念の日」問題へと焦点が移ったからである。
2 国家護持法案提出にいたるまで
 自民党は,第8回全国戦没者遺族大会での決議を受けて,56年3月14日に靖国神社法草案要綱を発表した。それは,靖国神社の名称を「靖国○社」とするなど,靖国神社から宗教性を抜いたうえでの国営化構想であった。また社会党も,同年3月22日に「靖国平和堂(仮称)に関する法律案要綱」を発表した。両党の草案は似通ったものであり,いずれも靖国神社の「宗教性の脱色」


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にポイントがあった。
 ところが,これら両党の靖国構想に,当の靖国神社はもちろん,全国護国神社会や日本遺族会などは,靖国神社の祭祀の伝統を守る立場から危機感を強めた。逆に,日本遺族会は,同年4月に,靖国神社の伝統と特殊性を尊重することなどを求めた「靖国神社法案(仮称)意見書」を提出し,自民党に対して法案の見直しを迫ったのであった。
 また,59年3月28日に,無宗教の国家施設である千鳥ヶ淵戦没者墓苑が完成した。ここには,日中戦争からアジア・太平洋戦争にかけての全戦没者の象徴遺骨を納骨してある。この墓苑の完成もまた,日本遺族会を中心とした靖国国家護持推進勢力の危機感を強めたのであった。
 59年以降,日本遺族会は靖国神社の国家護持を求める署名運動および地方議会での国家護持決議を働きかける運動を広げた。そうして,62年8月15日には,靖国神社の宗教性を明記した「靖国神社国家護持要綱」を衆参両院議長に提出した。
 一方で,靖国神社自体も,63年4月に独自の「靖国神社国家護持要綱」発表した。そこでは,宗教法人靖国神社をいったん解散し,特別法人をあらためて作り,合祀費用などは国費とし,合祀は天皇に上奏して決定するといった内容が定められていた。
 こうした日本遺族会や靖国神社の国家護持のための具体的な提起に,自民党は積極的に応じ,63年6月に,「靖国神社国家護持問題等小委員会」を設け,国家護持に向けての基本的な見解をまとめた。その後,自民党は法案化に向けての作業と党内固めに入っていった。
3 国家護持法案提出後の攻防
 靖国神社創立100年を迎えた69年3月,自民党の政調会長である根本龍太郎がまとめた「根本試案」が自民党案となり,同年6月30日午後「靖国神社法案」(全39条附則22条)が第61回国会に初めて提出された。
 この法案の目的の一つは,靖国神社を別法人にして内閣総理大臣の管轄とし,靖国神社から宗教性を排除する点にあった。その一方で,靖国神社の「伝統」に対しても配慮がなされている。
 しかし,宗教性は明確に残存していた。すなわち,第1条で,「靖国神社は,戦没者及び国事に殉じた人人の英霊に対する国民の尊崇の念を表すため,その遺徳をしのび,これを慰め,その事績をたたえる儀式行事等を行ない,もってその偉業を永遠に伝えることを目的とする」としているところ,「英霊」という高度に宗教性を有する言葉が使用されているのがその現れである。
 このように靖国神社から宗教性を払拭することが困難であるため,わざわざ第2条において,「靖国神社を宗教団体とする趣旨のものと解釈してはならない」という解釈規定まで設けているのである。また,第5条では,「特定の教義をもち,信者の強化育成をする等宗教的活動をしてはならない」という規定も置いている。しかし,靖国神社の名称も実態もそのままにしておきながら,「宗教に非ず」といっても,何ら説得力に欠けていた。


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結局,法案の中身は,靖国神社は神社だが宗教ではない,というこれまでの「神社非宗教論」を別言したものであり,憲法の政教分離原則というハードルを越えようと無理を押し通しているものであって,到底合理性を備えたものではなかった。そもそもの根本的な問題として,国家が法律で特定の宗教団体の宗教性を剥奪するなどということ自体,許されるはずもないことであった。
 そして,さらに問題なのは,靖国神社法案は,「戦没者等は,…内閣総理大臣が決定する」とあり(第3条),新たな戦死者を想定している点であった。法案提出当時にはほとんどの合祀は済んでいたことからすると,いずれ日本は,新たな戦没者が出る事態になるということを国家は想定していたといえる。
4 国家護持法案の挫折
 この靖国神社法案は,第61回国会では,提案理由さえ提示できずに衆議院内閣委員会にて廃案となった。2回目の提案は,第63回特別国会でなされたが,すぐに廃案となった。3回目(第65回国会)にようやく衆議院内閣委員会にて提案理由の説明が行なわれたが,その日に廃案となった。さらに,第68回国会でも提出されたが,やはり廃案となった。
 そして,田中角栄首相の政権の下,第71回国会にて5回目の提案がなされ,継続審議となった。次の第72回国会の74年4月12日の衆議院内閣委員会でついに自民党が単独採決を強行し,衆議院本会議でも単独採決をしたが,参議院では結局6月3日廃案となった。
 以上の流れで,最終的には,靖国神社法案は廃案となり,これ以後二度と国会に法案提出されなくなったが,その理由としては以下の点を挙げることができる。
 一つは,キリスト者,仏教者などを中心にした粘り強い反対運動の盛り上がりである。二つ目は,71年5月14日,津地鎮祭訴訟において,名古屋高裁がいわゆる「神社非宗教論」を明確に否定したうえで,初めて政教分離訴訟違憲の判断を示したことである。三つ目は,全野党の反対に加えて,74年夏の参議院選挙にて自民党が大敗し,参議院が保革伯仲になり,その影響で靖国神社法案を審理する内閣委員会が「保革逆転」(自民9,野党10)した政治状況へ変化したことである。そして四っ目は,74年5月13日に衆議院法制局が出した「靖国神社法案の合憲性」と題する見解であった。この見解は,憲法との整合性を厳密に検討すると,法案が成立すれぱ,靖国神社の祭祀の伝統をほとんど改変しなければならなくなることを明らかにしたものである。これに対しては,靖国神社は強く反発し,結局は,法案自体に反対する姿勢をとったのであつた。
 以上の経緯から,靖国神社国家護持運動は挫折を余儀なくされたのであった。

3章
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靖国法案の成立が,国民全体の広範な反対運動の盛り上がりによって挫折した後,靖国推進派の戦略は,改憲を視野に入れながら,現実的には事実行為の積み重ねによって国民意識を変え,最終的には国家護持へ向かうという方針に変化した。
 これは,具体的には,国や地方自治体の代表が公人の資格で靖国神社に参拝できるようにし,その実績を重ねていく方向であった。
 法制化による靖国神社の国家護持路線が変化する兆しは,72年の初めころから起きていた。まず中曽根康弘自由民主党総務会長が明らかにした構想である。それは,靖国法案の成立は困難との見通しを前提に,靖国神社は現状のままにし,国が100億か200億円で英霊を祀る大殿堂を建設するというものだった(いわゆる「国立英霊大殿堂」構想)。
 また,同じころ,稲葉修自民党憲法調査会会長らが,新たな靖国法案づくりに動き出していた。それは,@国家が戦没者に敬意を表するために,靖国神社の春秋の例大祭に天皇・首相・閣僚・国家公務員が参拝する,A信教の自由を守るために,例大祭は宗教的儀式にはせず,国民的祭りとする,B閣僚,国家公務員の宗教上の理由による参拝拒否は認めるなどであった(『靖国の戦後史』140頁)。
 しかし,いずれの法案に関しても,多くの国民から反対の声が上がったほか,そもそも靖国神社自体が反対するとともに,日本遺族会などの国家護持推進勢力によって批判されたこともあり,成立にはいたらなかった。
2 表敬法案をめぐる動き
 1975年2月17日,藤尾正行衆議院内閣委員長は,いわゆる表敬法案を提示し,これは翌月,自由民主党の「党案」とされた。その内容は,靖国神社法案をもって最高至上の最終目標であるとしながら,その段階的な実現を期して,とりあえず「天皇及国家機関員等の公式参拝」等を内容とする「国に殉じたものの表敬に関する法律案」を策定し,通過せしめる,というものであった。具体的な内容としては,@天皇及び国家機関員等の公式参拝,A外国使節の公式表敬,B自衛隊儀仗兵の参列参拝,C国民の支持を得られるよう合祀対象を広げて,警察官や消防士なども含める,などというものであった(『ジュリスト』848号86頁,同153頁)。
3 「私的参拝」という虚構
 この表敬法案において,初めて「公式参拝」という文言が登場する。川口順好衆院法制局長は,この「公式参拝」について,「国の立場というのが明確になる立場」と説明しているし,また一般には「公的な資格で参拝すること」と解釈されていた。
 もっとも,「公式参拝」という用語は,政治的に作出されたものであったために,政府は,「公式」か「私的」かは,あたかも参拝の外形的なスタイルで決まるかのように事実を歪曲し,恣意的に基準を定めていった。そして,政府は,以下に詳細に見るとおり,自ら定めたその基準すらなし崩し的に破っていったのである。


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このことからすると,本来,首相の参拝という事実にこそ注目しなければならないところ,政府は,参拝の方式やスタイルを議論することで,首相参拝の持つ社会的な影響力など本質的な意味を隠蔽しようとしたといえる。その意味では,三木首相以下,歴代の首相の「8・15靖国神社参拝」は,いわぱ「私人」という仮面をかぶった「首相の公式参拝」であるといえる。
 以下,公式参拝実現の経緯を具体的に見ていく。
第2 「公式参拝」の経緯
1 現職首相の8・15靖国参拝
 首相の敗戦記念日当日の靖国神社参拝は,1975年の三木武夫首相に始まる。 もっとも,三木首相の参拝以前にも,現職の首相が全く参拝していなかったわけではない。1951年に吉田茂首相が秋季例大祭に出席したのを初めとして,歴代首相は,鳩山一郎・石橋湛山両首相を除いて,春季例大祭,秋季例大祭に参拝していた(『ジュリスト』848号「靖国神社問題関係年表」,『靖国の戦後吏』113頁表2)。
 靖国神社の例大祭は,戦前は日露戦争の陸・海軍の凱旋日とされていたように戦争と分かちがたい関係にあった。したがって,春秋の例大祭に靖国神社に参拝することは,「宗教的活動」の点で大きな問題となる。さらに,敗戦記念日である8月15日に参拝することは,上記の宗教的活動の問題に加えて,アジア・太平洋戦争をどのように評価するかの問題とも関連してくるのである。
2 首相による初の8月15日「公式参拝」と私的参拝4条件
 前述のとおり,三木首相は,1975年8月15日,自民党総裁専用車にて,靖国神社に参拝した。このとき三木首相は,私人としての参拝であることを強調するために,公職者を随行させず,記帳も内閣総理大臣の肩書を使用しなかった。そこで,私的参拝であるための基準として,@公用車を使用しないこと,A玉串料を国庫から支出しないこと,B記帳には肩書きをつけないこと,C公職者を随行させないこと,の4つの条件を挙げた。
 この当時は,政府でさえ,内閣総理大臣の地位にある者が,敗戦記念日に靖国神社に参拝することそのものが違憲の問題を生じさせると考えており,上記4条件に見られるごとく,完全な私人としての行為であることを徹底することによってかろうじて憲法上の疑義を免れうると考えていたのである。すなわち,三木首相は,外形的な判断基準である公用車,肩書および随行員を使用しないことで公的な性格を払拭し,憲法20条3項との抵触を回避し,また玉串料の私費負担により,憲法89条との抵触を回避しようと考えていたのである。
3 なし崩しにされる4条件
 ところが,1978年の福田赴夫首相は,8月15日の靖国神社参拝の際には,首相公用車を用い,安倍官房長官ら3名の公職者を随行させ,「内閣総理大臣福田赴夫」と記帳して参拝したので,玉串料以外の条件は,私的参拝の基準から外されることになった。


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この変更について,政府は,1978年10月17日の参議院内閣委員会において政府統一見解を発表し,私的参拝の枠を踏み出すものではないと擁護した。すなわち,@内閣総理大臣その他の国務大臣も,信教の自由の保障により私人としての立場で参拝することは自由であること,A特に政府の行事として参拝実施を決定し,あるいは玉串料を公費で支出するなどのことがない限り,私人の立場での行動と見るべきであること,B記帳に際しての肩書記入も,その地位にある個人を表すに過ぎないこと,C上記参拝に際しては,あらかじめ私人の立場での参拝であることを明らかにして公の立場での参拝であるとの誤解を受けることのないように配慮したこと,D玉串料は私費でまかなわれたことから依然として私的参拝であるとしたのである(『ジュリスト』848号115頁)。
 これにより,公式参拝か否かを判断するにあたっては,三木首相のときに掲げられた外形的な判断基準すら軽視し,参拝する者がどのような気持ちで参拝するかという心的要因すらクリアできれぱ,あとは公費負担をするか否かという財政的な要因に限定されるということになったのである。
4 続く首相の参拝
 1979年には,春秋の例大祭に,キリスト教徒の大平正芳首相が靖国神社参拝を行なった。また,80年8月15日には,鈴木善幸首相は,閣僚とともに靖国神社への集団参拝を行なった。
 同年11月17日,鈴木内閣のとき,参議院議員運営委員会において,「国務大臣の靖国神社参拝について」という新たな政府統一見解が示された(『ジュリスト』848号115頁)。そこでは,「政府としては,従来から,内閣総理大臣その他の国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは,憲法20条3項との関係で問題があるとの立場で一貫してきている。」「そこで政府としては,従来から事柄の性質上慎重な立場をとり,国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは差控えることを一貫した方針としてきたところである。」とされており,78年の統一見解よりもいくぶん軌道修正された。しかし,それでも,いかなるスタイルであれ現役の首相が靖国神社に参拝することの社会一般に与える意味については不問とされている。
 鈴木首相は,82年8月15日,公式か私的かを曖昧にしたまま参拝した。
5 靖国懇の設置と報告
 中曽根康弘首相は,82年11月27日に首相に就任以来,靖国神社への参拝を重ねていった。そして,83年7月8日には,「公式参拝」の合憲性を根拠付けるために自民党に検討を指示し,また同月30日には首相・閣僚の靖国神社参拝に関する政府統一見解(80年11月17日発表)の見直しを示唆した。
 自民党は,公的機関が神社・寺院を訪れて,戦没者の功績を称え,玉串料などを公費支出しても違憲ではないという党見解をまとめた。
 そして,その見解を受け,84年7月17日に,政府は,藤波孝生官房長官の私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(いわゆる「靖国


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懇」)を設置した。この「靖国懇」は,林敬三日赤社長を座長に15名が,8月3日から計22回の会合を持ち,1年後の85年8月9日に報告書をまとめた(『ジュリスト』848号110頁)。
 靖国懇の報告書は,まず戦没者の追悼が,「宗教・宗派・民族・国家の別などを超えた人間自然の普遍的な情感」だとし,「国及びその機関が国民を代表する立場で行なうことも当然」とした。その上で,「国民や遺族の多くは」,靖国神社に対して,沿革や規模から見て「依然として我が国における戦没者追悼の中心施設である」と受け止めていると断定し,「内閣総理大臣その他の国務大臣が同神社に公式参拝することを望んでいると認められる」と,「公式参拝」の道筋を是認した。
 その上で,結論部分では,「政府は,この際,大方の国民感情や遺族の心情をくみ,政教分離に関する憲法の規定の趣旨に反することなく,国民の多数により支持され,受け入れられる何らかの形で,内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社への公式参拝を実施する方途を検討すべきである」と記載している。
 政府はこの報告を受けて,同月14日に,藤波官房長官談話を発表し,15日に内閣総理大臣は靖国神社へ「公式参拝」を行なうと発表した。それまでは,政府統一見解は「違憲の疑いがある」ということであったが,法的な根拠もない私的な会合である靖国懇の意見を重視して,公式参拝は合憲であるとの見解に変更したのである。
6 中曽根首相の「公式参拝」
 中曽根首相は,1985年8月15日午後1時40分,靖国神社に「公式参拝」した。公用車を使い,藤波官房長官と増岡博之厚生大臣を公務として随行させ,拝殿で「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳し,本殿にて直立し,内陣に向かって10秒近く深く一礼した。このとき,いわゆる2拝2拍手1拝という神道式の作法は取らなかった。しかし,本殿に「内閣総理大臣中曽根康弘」の名前入りの生花一対を供えさせ,供花料の名目で3万円を政府支出した。
 参拝後,境内で記者団に囲まれた中曽根首相は,「首相としての資格において参拝しました。もちろん,いわゆる公式参拝であります。国民の大多数は公式参拝を支持していると確信しております」と自信に満ちた表情で語った。
 靖国法案の挫折以来,「公式参拝」運動を推進してきた日本遺族会は,10年来の運動の成果として首相の「公式参拝」が実現したことに対して,「永年,公人が公人たる資格において,戦没者に対し敬意と感謝の誠を捧げるべきであると運動を行なってきた本会は,総理の決断に深く敬意と感謝の意を表するものであります」と高く評価する見解を発表した。
 なお,中曽根首相による「公式参拝」に関しては,多くの国民の注目を集め,参拝当日は靖国神社周辺には,中曽根首相の「公式参拝」に賛同する者,反対する者双方が全国から集まったのであった。そして,マスメディアは,この「公式参拝」を大きく報道・論評し,諸外国からも,後に触れるように多くのコメントが寄せられた。
7 首相参拝に対する反対運動


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 中曽根首相による靖国神社公式参拝に対しては,国内・国外から批判の声がまきあがった。
 その一つとして,戦没者遺族の中から大きな反対運動をあげることができる。
 1969年4月に結成された「キリスト者遺族の会」の人々や,82年に北海道旭川市内において日本遺族会から脱会して「平和遺族会」を結成した人々は,公式参拝は侵略戦争を肯定するものとして強く抗議の意思を表明した。また,中曽根首相の上記公式参拝がきっかけとなり,浄土真宗本願寺派の僧侶・門徒の遺族らが「真宗遺族会」を結成し,その後沖縄・群馬・東京・浜松など全国各地で平和遺族会の結成が相次いだ。これらの平和遺族会は,86年7月に平和遺族会全国連絡会を結成し,アジア・太平洋戦争を侵略戦争であると位置づけ,この侵略戦争を肯定する靖国神社への公式参拝は認めるわけにはいかないと主張した。
 また,国内の宗教者団体の多くも中曽根首相の公式参拝に反対する抗議を行なった。
 具体的には,8月15日前後に,日本キリスト教協議会,日本キリスト教団,日本カトリック司教協議会・日本カトリック正義と平和協議会,日本バプテスト連盟などのキリスト教界や,全日本仏教会,真宗教団連合などの仏教界,あるいは財団法人新日本宗教団体連合会など多数の宗教者,宗教団体が,相次いで靖国神社公式参拝への抗議声明を出した(『ジュリスト』848号133頁以下)。
 加えて,多くの市民団体や憲法学者からも抗議・反対の声明が出され,日本弁護士会連合会からも公式参拝は違憲であるとの見解が表明されたのである(『ジュリスト』848号144頁)。
 そして,中曽根首相の靖国神社公式参拝の違憲性を司法の場で断罪しようとの声が各地で広がり,85年11月播磨にて,同年12月大阪にて,86年8月福岡において,次々と靖国神社公式参拝違憲訴訟が提起された。その詳細については,後に詳述する。
 さらに,批判の声は諸外国でも上がった。 すでに中国政府は参拝の前日である8月14日に,「日本軍国主義が発動した侵略戦争はアジア・太平洋地域各国の人民に深い災難をもたらし,日本人民自身もその損害を被った。東條英機ら戦犯が合祀されている靖国神社への首相の公式参拝は,中日両国人民を含むアジア人民の感情を傷つけよう」と反対の意思表示を明らかにしていた。また,日本による植民地時代に神社参拝を強要された韓国では,中曽根首相の「公式参拝」が「戦後政治の総決算」の文脈でなされたことから,植民地支配や侵略戦争の正当化として受け止められた。そして,シンガポール,香港でも批判が強く現れた。
 さらに,ソ連(当時)からも「危険な要素」,そしてアメリカ合衆国からも疑念の声が上がったのである(『靖国の戦後吏』168頁)。
 このように中曽根首相の「公式参拝」は,国内のまた国際的な大きな批判にさらされたのであった。


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8 「公式参拝」路線の挫折
 上記のような国内外からの強い反発を受けて,中曽根首相は10月に予定されていた秋の例大祭参拝を見送らざるを得なくなった。その後,86年4月の春季例大祭での参拝も見送った。さらに,結局は同年8月14日,後藤田正晴官房長官は翌8月15日の「公式参拝」は見送ると発表した。その理由は,「昨年夏の公式参拝は,A級戦犯への礼拝ではないかとの批判を近隣諸国に生んだので,わが国の戦争への反省と平和友好の決意に対する不信にもつながりかねない」というものであった。もっとも,「公式参拝」自体を否定することはなかった。
 中曽根首相による靖国神社「公式参拝」は,こうしてたった1回で挫折した。中曽根首相の「公式参拝」実現によって,自民党政府を含む参拝推進派は,天皇の「公式参拝」実現を射程に入れていたはずであった。しかし,結局それは実現できなかった。
 その後,1996年7月29日,橋本龍太郎首相が現職総理大臣としては中曽根首相以来11年ぶりに靖国神社参拝を果たした。8月15日を避け,自らの誕生日を選んでの参拝であったが,参拝の態様としては,公用車を用い,「内閣総理大臣 橋本龍太郎」と記帳し,本殿に上がり「2拝2拍手1拝」の神式にしたがって正式参拝を行なうというものであり,社会は,首相としての資格による参拝であると受け止めた。
 この参拝に対しては,中曽根首相のときと同様の国内外の強い反発が巻き起こった。このため結局橋本首相もこれ以後首相としては参拝しなかった。
9 そして現在
 そして,小泉純一郎首相による,2001年8月13日の参拝である。
 訴状記載のとおり,小泉首相は,公用車を用い,「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し,本殿に昇殿し,祭壇に黙祷した後,深く一礼を行った。
小泉首相は,その後2002年4月21日,2003年1月14日と参拝を行った。
 歴代首相の中でも,多い回数といえ,中曽根首相や橋本首相以来,途切れていた公式参拝路線の継承と復活をうかがうものである。
第3 A級戦犯合祀の意味するもの
 なお,ここで,A級戦犯の合祀問題について付加をして述べる。
1 A級戦犯とは
 A級戦犯とは,日本の侵略戦争の責任者を裁いた極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)で,有罪判決を受けた戦争犯罪人を意味する。この裁判は,1946年から2年間以上にわたって開かれ,28名の被告を,侵略戦争を計画・準備・実行した「平和に対する罪」や「人道に対する罪」によって裁き,東條英機ら25名を有罪とした。これらの人々のことを,捕虜虐待などの通例の戦争犯罪によって裁かれたB・C級戦犯と区別して,「A級戦犯」と呼んでいる。
 靖国神社は,この東京裁判を「敗者に対する勝者の一方的な報復裁判」であ


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るとか,「国際法を無視した不当な裁判」だとして認めようとしない。しかし,日本政府が受諾したポツダム宣言の中には,戦争犯罪人を処罰することが明記されているし,また,「平和に対する罪」という考え方は,1928年の不戦条約や45年の国連憲章など,侵略戦争は違法であるという国際法の精神を具体化したものであることから,靖国神社の批判は当たらない。
2 A級戦犯合祀
 靖国神社は,1978年10月17日に,A級戦犯で死刑を執行された東條英機・広田弘毅・松井石根・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・武藤章の7名と,勾留・服役中に死亡した梅津美治郎・小磯国昭・平沼騏一郎・東郷茂徳・白鳥敏夫・松岡洋右・永野修身の7名の14名を,国家の犠牲者「昭和殉難者」であるとして靖国神社に合祀した。もともと,靖国神社は,53年から戦傷病者戦没者遺族援護法で戦犯死亡者も一般戦没者と同じように遺族年金が支給されるようになったことを理由に,戦争犯罪人といっても国内法上の犯罪者とは区別しているとして,A級戦犯を合祀することを正当化してきていたのであった。
 このA級戦犯合祀が報道されたことを受けて,藤田勝重権宮司は以下のとおり述べている。「国民感情の面からは延び延びになっていたが,戦後33年も経過していることや,明治以来の伝統から靖国神社へまつることが適当である,と神社内で判断した。A級戦犯とはいえ,それぞれの国のために尽くした人であるのは間違いなく,遺族の心情も思い,いつまでも放置しておくわけにもいかなかった。なお不満の人もあることから,いちいち遺族の承諾を求めるものではないと判断し,案内も出さなかった」(1979年4月19日付朝日新聞)。
3 国内外の批判の声
 このA級戦犯合祀に関しては,「われわれには,靖国神社と,神道に立脚した国家主義との癒着に対する警鐘に聞こえた」(読売新聞・社説)のような批判の声が強かった。
 また,それ以上に,中国や韓国といったアジア諸国からの反発も大きかった。日本政府を代表する内閣総理大臣が,A級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝し,追悼の意を捧げることは,日本政府が侵略戦争の責任者を讃えることを意味するのであるから,侵略戦争によって大きな被害を受けたアジアの人々が強く反発するのは当然のことであったと言える。
4 A級戦犯合祀問題の意味するもの
 前述したとおり,「國に役だった者」との独自の基準で合祀を決定する靖国神社の立場からすれば,A級戦犯であってもその基準に該当すれば合祀すべきものとなるのは自然なことである。しかし,これこそ,靖国神社が天皇の戦争に従軍してこれに命を捧げた者を賛美する性格を戦前から一貫して継承し,過去の戦争を反省し二度と繰り返してはならないとは考えないことの象徴である。靖国神社に戦争の記念日である8月15日に参拝し続ける歴代首相,本件の被告小泉においても然りである。


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第4 靖国神社参拝の意図はどこにあるのか
 かように,国家護持化路線が挫折して以降の歴代首相は,靖国神社に「公式参拝」するという形で,靖国推進の戦略を積み重ねてきた。小泉首相の「公式参拝」も,その歴史的経過の一貫と位置づけられる。
 では,なにゆえに,靖国推進勢力は,これほどまでに靖国神社と国家との結びつきを強めることを推進したいのであろうか。
 それは,結論的に言えぱ,自衛隊による武力の行使を可能にし,再び「殴る」側に立つことで不可避的に生じる「戦死者」を靖国神社に祀る,そのことによって国民と遺族の慰謝をはかる,そのための布石としての行為と言える。被告小泉は,そのために,憲法違反であることを,また,原告らの人権を侵害することを,理解しながらあえて行っているのである。

第4章 靖国神社を巡る戦後市民運動の発展
第1 住民訴訟の提起
1 総論一市民の声
 遺族会・靖国神社・自民党が中心になって進められた一連の国家護持運動,三木首相による「公式参拝」の開始,歴代首相の「公式参拝」,靖国懇談会の設置など,靖国神社を政治的に利用とする動きに対して,これに強く反発する声が,一般市民の側から吹き出した。その声は,国・地方公共団体の行為の違憲性を争う住民訴訟という形を取って具現化していったのである。
2 津地鎮祭訴訟
 三重県津市が市体育館の建設に当たって,神式の地鎮祭を挙行し,それに公金を支出したことが,憲法20条,89条に反するとして,津市の市議会議員が違憲訴訟を提起した。原告は,市が水源地に神社を建てたり,市の競艇場に競艇神社を作ったりする動きに異議を唱え続けてきた。原告は,訴訟提起,準備書面の作成,全8回の口頭弁論,証人尋問などをただ一人で行い,本人訴訟で戦い抜いた。このような政教分離に対して厳格さを貫く原告の姿勢を支えたのは,中学時代に神社への集団参拝の強制,航空兵器工場への就職強制,津市が空襲を受けた際に妻と共に3人の幼子を連れて逃げまどったという,戦時中の悲惨な原体験である。
 一審の敗訴判決後,原告の問いかけに多くの宗教者はじめ多くの市民がこの訴訟に関わっていった。
3 自衛官合祀拒否違憲訴訟
 1973年1月22日,殉職自衛官の夫を自己の信仰に反して山口県護国神社に合祀されたキリスト教信者の妻が,合祀を推進し申請した自衛隊山口地方連絡部(地連)と社団法人隊友会山口県支部連合会(隊友会)の行為は政教分離原則に違反し,亡夫を自己の意思に反して祭神として祀られることのない自由(宗教的人格権)を侵害するとし,損害賠償訴訟を山口地方裁判所に提訴した。


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原告が,この訴訟を提起するまでには,以下のような地連ないし護国神社側の不遜且つ傲慢な対応があったのである。
 すなわち,突然の地連による夫の合祀申請の通知に驚いた原告は,地連に対して,自分がクリスチャンであること,亡き夫の遺骨は既に自分が通っている教会に納骨されていること,護国神社は日本を戦争に駆り立てた靖国神社と同じでありそのような宗教施設に夫が祭神として祀られるのは耐え難い苦痛であることを伝え,合祀申請を取り下げるように求めた。
 しかし,地連はこれに応じなかったため,遂に原告の夫は護国神社に合祀された。その後,原告の再三にわたる抗議に対しても,地連の担当者は「現職の自衛隊員に誇りを持たせ,士気を鼓舞するために,奮起して祀った」「我々としては,遺族の宗教をいちいち聞いて入られない」等と主張した。そして地連・隊友会は,これが社会問題化するまで,一貫して合祀申請を取り下げに応じることをしなかったのである。
 その後,隊友会が合祀申請の取り下げを申し込んだ後も,護国神社の宮司は「御祭神の合祀や配祀は,申請者の意志で決められるものではなく,あくまで神社の主旨に照らし,神社自体が判断して決定するものだ」との考えから合祀取り下げを認めず,また全国護国神社会は73年3月の総会で,「いったん奉斎した祭神を遺族であっても他からの要請で取り除くことはできない」との統一見解を出したのである。
 このように,一介のクリスチャンに過ぎない女性が,このような違憲訴訟を提起するに到ったのは,戦前の靖国思想を無神経に押しつけて,宗教者の信仰を踏みにじる行為に及んだ地連と護国神社に対する憤りが込められているのである。
4 忠魂碑を巡る違憲訴訟
(1) 忠魂碑
 忠魂碑とは,靖国神社の思想を地域社会に刷り込む装置として,戦前・戦中至るところに建立された石碑である。天皇に忠義を尽くして戦没した死者たちを英霊として顕彰し,その前で慰霊祭を行い,「国のため」「天皇のため」に英霊に続けという,天皇制国家における「靖国の思想」を社会の末端で支えてきた施設である。このような事情から,当時の人々にとっては,忠魂碑−護国神社−靖国神社というふうにつながって記憶されており,「町の靖国・村の靖国」と称されていた。
 この「町の靖国・村の靖国」である忠魂碑を支援する地方公共団体の行為に対して,住民が立ち上がり,違憲訴訟を提起するという動きが広がったのである。
(2) 箕面忠魂碑住民訴訟
 1975年6月,大阪府の箕面市議会は,市内の忠魂碑を市の税金を使って移設再建するという市の計画を可決した。
 これに対し,移設予定地の小学校正門付近に住む夫妻が,「これは明確な違憲行為だ」と反対の声を上げた。この声は地域に広まり,同年8月頃には,移


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設再建反対の住民運動が展開された。しかし,市は,住民運動を無視して,忠曵碑を移設再建した。さらに,再建された忠魂碑前で行われた神道式の慰霊祭に,公務員である市長,市教育委員会教育長,市職員などが参列したのである。
 そこで,反対運動の中心になった夫妻と7人の市民は,1976年2月,市の公金支出及び市長らの慰霊祭の参列行為等が政教分離に違反する等を理由として,3つの違憲確認訴訟を大阪地裁に提起したのである。
(3) 長崎忠魂碑住民訴訟
 さらに,1982年8月3日,長崎市が市内の忠魂費を維持管理する保存会,遺族会などの団体に維持管理費の補助金として総額56万円を支出したことが,憲法20条1項,3項,89条に違反するとして,市議である牧師が,長崎地方裁判所に違憲訴訟を提起した。
5 靖国神社を巡る違憲訴訟
(1) 岩手靖国訴訟
 78年2月,三重県議会を皮切りに,各県議会で「公式参拝」の請願や促進・要望の決議などが採択されていった。その流れの中で,79年12月,岩手県議会が天皇・首相の靖国神社公式参拝を求める意見書を決議した。
 このような靖国護持運動に対して,「信仰を危うくするだけではなく,少数者を弾圧し,自己の存在を否定していくものだ」という強い危機感を以前より有し,信教の自由と政教分離の実現を求める市民運動の中心となっていた2人の牧師が,「県会議決議を何とか問いたい」との思いから,81年3月に@公式参拝を要望した意見書を,さらに82年6月にA同県の靖国神社玉串料支出を,それぞれ違憲とする訴訟を,盛岡地方裁判所に提起した。
(2) 愛媛玉串料訴訟
 81年から86年にかけて,愛媛県は,靖国神社の挙行した恒例の宗教上祭祀である例大祭に際し,玉串料として9回にわたり各5000円を,同みたま祭に際し献灯料として4回にわたり各7000円を,宗教法人靖国神社の挙行した恒例の宗教上の祭祀である慰霊大祭に際し供物料として9回にわたり各1万円ずつを,それぞれ県の公金から支出して奉納していた。これに対して,愛媛県内に住む真宗大谷派の住職,キリスト教牧師,戦争体験者,遺族ら10名の市民が,上記の県からの支出が,憲法20条3項,89条などに違反する違法な財務会計上の行為に当たるとして,当時の県知事らを相手に対し,県に代位して当該支出金相当額の損害賠償を求めた。
 原告らは,「わずかな玉ぐし料ぐらい,さい銭のようなもので社会的儀礼に過ぎない」という一見「寛容な」宗教感覚を持つ日本人の一部が,宗教的信念,あるいは精神の自由を貫こうとする少数者に対してはむしろ寛容性を失い,日常生活すら脅かそうとする現実に対して,強い危倶感を抱き,本件訴訟に踏み切ったのである(控訴審における安西賢二の意見陳述書)。
(3) 中曽根元首相の「公式参拝」に対して
ア 中曽根首相の「公式参拝」
 85年8月15日,当時の内閣総理大臣中曽根康弘は,公用車を用い,拝


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殿で「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳した上,本殿に昇殿し,戦没者の霊を祀った祭壇に黙祷した後,深く一礼した。その際,「内閣総理大臣中曽根康弘」いう名入りの生花一対の代金として供花料の名目で公費から3万円を支出し,靖国側に納めた。さらに,中曽根は,参拝後報道陣に対して「首相としての資格において参拝しました。もちろん,いわゆる公式参拝であります」と明言した。
 中曽根の公式参拝に対しては,多方面から抗議・批判の声が挙がった。
 自民党を除くすべての政党からは,抗議・遺憾の旨の声明などが出された。宗教界からは,日本キリスト教協議会,日本カトリック司教協議会,日本パプテスト連盟,全日本仏教界,真宗教団連合,新日本宗教団体連合会などが,抗議,反対,要望などを提出した。また,憲法研究者,日本婦人有権者同盟,国民文化会議等の市民団体も抗議声明を発表した。
 国内にとどまらず,戦時中日本の侵略戦争によって国土と人命を蹂躙された中国,南北朝鮮,香港,フィリピン,シンガポール等のアジア諸国からも反発と疑念が表明された。
 さらに,日本弁護士連合会は,公式参拝に先立つ85年7月に,公式参拝問題に関する見解として,「いかなる公式参拝も,憲法の許容しない国の宗教活動に該当し,憲法に違反し,公務員の憲法擁護義務にも違反すると思料する」旨を発表していたのである。
 このように靖国神社への公式参拝は,従来からどのような形を取ろうとも憲法に違反するとの指摘があった。かかる指摘を無視してなされた公式参拝には,多方面からの抗議・非難の声が挙がった。
 そして,公式参拝が具体的に決行された以上,その違憲性を法廷で争うべきであるとする人々が各地で現れたのである。
イ 1985年11月28日,播磨靖国「公式参拝」違憲訴訟提起
 まず,兵庫県播磨地方の僧侶,牧師,市民ら115人が「公式参拝によって,宗教的自由と信教の自由を侵害され,著しい精神的苦痛と憤慨を味わっている」として,一人当たり慰謝料3万円を求める損害賠償請求を,神戸地方裁判所姫路支部,竜野支部に提訴した。原告の一人は,冒頭意見陳述において「私たちは直接的には損害賠償請求訴訟でありますが,同時に平和と信教の自由の回復を強く希求する訴訟を致すものであります」との,平和に対する熱い想いを表明している。
ウ 1985年12月6日,関西靖国「公式参拝」違憲訴訟
 次に,肉親を戦争で失い,靖国神社に合祀された6名の遺族が,公式参拝により,信教の自由等を侵害され,精神的苦痛を被ったとして,国と中曽根を相手方として,損害賠償を提起した。
 原告らの肩書きは,市議会議員,沖縄在住の彫刻家,部落解放運動家等様々であるが,いずれの原告も,肉親を,太平洋戦争時に中国,フィリピン等の戦場で失い,かつ靖国神社に合祀されているものである。
 その訴状に綴られた「国家の無謀な行為によって親族の命が奪われたがゆ


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えに,国家から干渉を受けないで故人を偲びたいと願っているのは無論のこと,故人をいかなる形であれ国家によって利用されたくないと強く願っているのものである。」との文言が,公式参拝に対する原告らの想いを顕著に表している。
工 1986年8月11日,九州靖国「公式参拝」違憲訴訟
 福岡,佐賀,熊本など九州各地に住む僧侶,神父,牧師,戦没者遺族,無宗教者など43名は,中曽根の公式参拝が憲法20条1項,3項に違反するとして,国と中曽根首相を相手に,原告一人当たり10万円の慰謝料を求める損害賠償訴訟を,福岡地方裁判所に提訴した。
 この訴訟提起の中心となったのは,宗教者達の市民運動である。すなわち,82年,福岡市の管理する旧陸軍墓地内に建てられた「聖戦の碑」に戦争賛美,侵略戦争正当化の文言が刻まれていたことから,これに反発した仏教徒達が,キリスト教徒達と共闘し,碑の撤去を要求する市民運動を展開した。そして,上記中曽根の公式参拝後,この市民運動体が中心となって「公式参拝は,明らかに政教分離,信教の自由規定に違反する,これを見過ごしてはならない」と呼び掛け,これに弁護士,学者,労働者,市民が結集して原告団が結成された。
 原告らは,中曽根を公式参拝に踏み切らせたのは,太平洋戦争において日本人が侵略者であり加害者であることの認識の欠如と,アジア諸国民蔑視が原因であるとの思いから,「この裁判は狭少で独善的な民族エゴ,国家エゴを放棄させ,世界平和の一助になるものと私たちは位置づけています」と主張している(提訴時の原告団アピール)。ここに,訴訟を提起した原告らの,平和に対する熱い想いが込められているのである。
6 2000年以降も立ち上がる住民訴訟
(1) 日本の「右傾化」
 99年5月に周辺事態法等ガイドライン関連三法案が国会で決議され,これによって自衛隊の海外派兵の要件が緩和されたことによって,再び,靖国神社の「派兵され戦死した自衛官=戦没者を合祀する」という役割が脚光を浴びつつあった。
 2000年以降も,靖国神社を利用しようとする政府の動きは加速し,同時にこれに対して異議を唱える市民の声もまた衰えることはなかった。
 01年4月,この動きと歩を合わせるかのように,被告小泉は,首相に就任するやその際の記者会見の中で,自民党総裁選挙中に明言した靖国神社参拝に意欲を見せ,更に同年5月10日の衆議院本会議で8月15日に靖国神社を公式参拝する予定であることを明らかにした。
 これら一連の政治的情勢を受けて,市民の間では,靖国神社に対する警戒感と首相の公式参拝への危機感が,これまでにない程に高まっていった。
(2〕 韓国人遺族,靖国合祀絶止を求めて提訴
 これらの「右傾化」していく日本の政治情勢に対しては,戦時中,日本の植民地支配を受けた国々からも,強い抗議と非難の声が挙げられたのである。


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 01年6月,日本の侵略戦争に動員され,戦没するなどの被害を受けた韓国の元軍人・軍属とその遺族252人が,日本政府に遺骨の返還,未払い賃金の支払い,総額24億円の損害賠償などを求める訴えを,東京地方裁判所に起こした。その中で,252人中55人の原告が,無断で肉親を「日本の英霊」として靖国神社に参拝されている事が耐えられないとして,日本政府に合祀取り下げを求めた。
 これは,戦争に動員し,死に追いやり',その通知もせず,補償も行わず,他方で戦没者の情報を靖国神社に提供して「合祀」協力を積極的にしてきた日本政府に対する怒りが込められているのである。
(3) 小泉靖国参拝違憲訴訟
 被告小泉は,01年8月13日,靖国神社を公式参拝した。その経緯は,訴状の通りである。
 これに対して,01年11月には,福岡(原告211名),松山(原告64名),大阪(原告631名)で,01年12月には,東京(原告1057名),千葉(本件訴訟:原告63名)で,02年2月には,沖縄で,被告小泉の靖国神社参拝が政教分離に反し,かつ信教の自由ないし思想信条の自由を侵害するものとして,違憲の確認,損害賠償,参拝の差し止め等を求める訴訟が,次々に提訴されている。そして、その原告総数は2000名を優に超えるのである。
7 まとめ
 以上概観したとおり,靖国神社を巡る住民訴訟は,日本各地で,1970年以降の約30年の間に10を越える(地域ごと,訴訟物ごと,被告ごとに,正確に数えれぱ20を優に越える)頻度で提起されている。
 これは,いつの時代においても,軍国主義の精神的支柱という靖国神社の役割を復活させ,なし崩し的に信教の自由と政教分離原則を踏みにじろうとする動きに対して,日本各地およびアジアの市民が,反発し抗議し続けたことをしめしている。
 つまり,靖国神社を利用しようとする公権力の動きをくい止めようとする市民の声は,時代と空間を越えて,広がり続けていたことを示している。また,これら抗議し続けてきた人々は様々であり,具体的には,宗教者であり,家族を戦時下の皇民化政策によって失った遺族であり,憲法の遵守を求める研究者であり,平和を愛する一般市民等であって,このことは,靖国神社に対する抗議の声が,社会の各層に広がっていることの証左である。
 そして2000年以降,特に被告小泉の本件公式参拝以降,日本各地で違憲性を争う住民訴訟が頻発していることに鑑みれぱ,これら靖国神社と国家の「結合」,とりわけ「結合」の最たる姿である総理大臣の靖国公式参拝については,これを「断じて許せない」とする市民の声は,高まり,益々強くなっていると
言えるのである。

第2 度重なる違憲判決
1 総論


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 上記のように立ち上がっていった住民訴訟に対して,裁判所も数多くの違憲判決を下し,靖国神社を利用する勢力に抗議する市民の声に一定の理解を示すとともに,政教分離原則を踏みにじろうとする動きにくさびを打ち続けてきた。
2 下級審における違憲判決
(1) 津地鎮祭違憲判決
 三重県津市が市体育館の建設に当たって,神式の地鎮祭を挙行し,それに公金を支出したことが,憲法20条,89条に反するのではないかが争われた事件の控訴審において,71年5月,名古屋高裁は,神式地鎮祭は単なる習俗的行事ではなく,宗教的行事であると判断し,違憲判決を下した。
 判例は,本件地鎮祭と政教分離原則について以下のように説明した。すなわち「国,地方公共団体の政治権力,威信及び財政を背景にして,特定の宗教が公的に宗教的活動を行うこと自体が,その特定の宗教に利益を供与し,これを国教的存在に近づけ,他の宗教及び反対する少数者を異端視し,阻害する間接的圧力になる」ことを理由に,公権力が行為主体になって特定の宗教的活動を行えぱ,一般市民に参加を強制しなくとも,それだけで政教分離原則の侵害になると説明した。
 その上で判例は,20条3項の「宗教的活動」を広く解し,特定の宗教の布教,教化,宣伝を目的とする行為の他,およそ宗教的信仰の表現である一切の行為であると説明し,本件地鎮祭が「宗教的活動」にあたり,政教分離の原則を侵害するものであると判断したのである(名古屋高判昭和46年5月14日行裁例集22巻5号680頁)。
 もっとも,上記違憲判決は,目的効果基準を用いた最高裁の判決によって覆された(最大昭和52年7月13日民集31巻4号533頁)。
〔2) 山口地裁,自衛官合祀拒否訴訟違憲判決
 1979年3月,山口地方裁判所は,妻の意向を無視して,元自衛官である夫を,自衛隊が県隊友連と共同で護国神社に対して合祀申請したことに対して,妻が違憲確認と合祀の取り下げを求めた自衛官合祀拒否訴訟において,自衛隊の行為を違憲だとする判決を下した。
 判決は,「静謐な宗教的環境下で信仰生活を送る権利」である「宗教的人格権」を認め,その上で,本件申請行為を県隊友会と地連の共同行為と認定し,国が関与したそのような合祀申請行為は宗教的意義を有し,かつ県護国神社の宗教を助長・促進する行為であるから,これが憲法20条3項によって,国及びその機関がなす事を禁止された「宗教的活動」に当たることは明らかであると判断し,憲法に反すると断じた(山口地判昭和54年3月22日判時921号44頁)。
 1982年6月,原被告双方が控訴した控訴審においても,広島高等裁判所は,県隊友会の被告適格の点を除いて,第一審の判断を支持した(広島高判昭和57年6月1日判時1063号3頁)。
 しかし,上告審において,最高裁は,合祀申請は,自衛隊の外郭団体である隊友会の単独行為であり,それに協力した地連の行為の宗教との関わり合いは


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間接的で,宗教的活動ということはできないと判示した。また,原審で認めた「宗教的人格権」も抽象的な概念で法的利益とは認められないと判示し,これを覆した(最大昭和63年6月1日民集42巻5号277頁)。
(3) 忠魂碑訴訟の違憲判決
 1982年3月,大阪地裁は,前述した箕面忠魂碑の公費移設再建違憲訴訟において,「目的効果基準」を用いた上で,忠魂碑の宗教性を認め,公費による移設は憲法20条及び89条に反するとして,違憲判決を下した(大阪地判昭和57年3月24日判時1036号20頁)。
 また,大阪地裁は,1983年3月,箕面忠魂碑慰霊祭違憲訴訟においても,市の関与を職務権限外の行為であるとして政教分離違反の認定は避けたものの,忠魂碑の前でなされた神式および仏式の慰霊祭を典型的な「宗教行事」と判断した(大阪地判昭和58年3月1日判事1068号27頁)。
 さらに,92年12月には,前述した長崎忠魂碑訴訟において,問題になった11基の忠魂碑のうち1基については,宗教性が高く,これに対する市の補助金支出は違憲であると判断した(長崎地判平成2年2月20日判タ723号167頁)。
 しかし、これら、忠魂碑をめぐる訴訟も上級審では、違憲判断を覆された(箕面忠魂碑につき、大阪高判昭和62年7月16日行裁例集38巻6・7号561頁、最判平成5年2月16日民集47巻3号1687頁。長崎忠魂碑につき、福岡高裁平成4年12月18日判タ804号272頁)。
(4) 違憲判決を覆す上級審判決に対する批判
 これらの訴訟(津地鎮祭違憲訴訟,自衛官合祀拒否訴訟,箕面忠魂碑訴訟等)の下級審における違憲判決は,いずれも上級審において覆されている。しかし,これらの上級審に対しては,学説からも数多くの疑念が呈されており,逆に下級審における違憲判決は高い評価を得ているという現状がある。
 まず,津地鎮祭違憲訴訟の上告審の合憲判決に対しては,政教分離原則を骨抜きにする意図で目的効果基準を用いているとの批判が強い。現に,この合憲判決に対しては,15人中5名もの反対意見が付されている。
 むしろ,原審である控訴審判決が「政教分離の原則は,宗教を敵視してこれを無力化することを目的とするものではなく,国によって定められた宗教と宗教的迫害が手を携えてくるものであるという歴史的事実の自覚の上に基礎をおいているものである」と認識している点を捉えて,信教の自由と政教分離の核心を深く正しく洞察した判決であると,学説からは,高く評価されているのである(佐藤功「ジュリスト484号」)。
 また,自衛官合祀拒否訴訟の上告審判決は,自衛官合祀の共同行為性を否定して地連の申請行為は「宗教的活動」にあたらないとして合憲判断をした。しかし,これに対しては,「地連と隊友会が共同して行った合祀申請は,合祀と密接不可分の関係にあるもので,目的効果基準に照らし宗教的活動に当たり,宗教上の心の静穏という法的利益を違法に侵害する」旨の伊藤正己裁判官の反対意見を妥当とする通説的な批判があり,その他学説からの批判も強い(芦部


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信喜「憲法新版」151頁)。
 さらに,箕面忠魂碑違憲訴訟の控訴審,上告審各判決(いずれも合憲判決)に対しては,忠魂碑と靖国神社の関係を十分に吟味せずに,特定の宗教との関係は希薄と断じている点に関して,国家神道,忠魂碑の歴史認識の甘さを指摘する声がある(平野武「政教分離裁判と国家神道」)。
3 首相の「公式参拝」に対する違憲判決
(1) 仙台高裁,天皇・首相の「公式参拝」等違憲判断
 まず,1(5)で言及した岩手靖国訴訟の控訴審において,仙台高裁は,@天皇・内閣総理大臣の靖国神社公式参拝につき,「その目的が宗教的意義を持ち,その行為の態様から直接に又はその機関として特定の宗教への関心を呼ぴ起こす行為」とした上で,「公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的,顕在的な影響及び将来予想される問接的,潜在的な動向を総合考慮すれば,右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との関わり合いは,わが国の憲法の拠ってたつ政教分離原則に照らし,相当とされる限度を超えるものと断定せざるを得ない」と,天皇・総理大臣の公式参拝が政教分離に反すると明示した。
 また,A岩手県による靖国神社に対する玉串料の支出についても,「玉串料などの奉納は靖国神社の宗教上の行事に直接かかわり合いを持つ宗教性の濃厚なものである上,その効果に鑑みると,特定に宗教団体への関心を呼び起こし,かつ靖国神社の宗教活動を援助するものと認められる」と判示し,同じく政教分離に反するとした(仙台高判平成3年1月10日行裁例集42巻1号1頁)。
 県議会側は,上告を断念し,特別上告も不適法とされたため(最決平成3年9月24日),上記判決は確定した。
(2) 福岡高裁,r公式参拝」継続すれば違憲の判断
 次に,1(7)で前述した中曽根元総理大臣の公式参拝違憲訴訟においても,公式参拝を違憲と評価する高裁レベルでの判断が下された。
 92年2月,前述した九州靖国「公式参拝」違憲訴訟の控訴審において,福岡高裁は,本件公式参拝の具体的態様に着目して,信教の自由の侵害は認められない等の理由から,控訴人らの請求を棄却しつつも,「宗教団体であることが明らかな靖国神社に対し,『援助,助長,促進』の効果をもたらすことなく,内閣総理大臣の公式参拝が制度的に継続して行われうるかは疑間であり」と判断し,内閣総理大臣による継続的な公式参拝は憲法20条3項に違反するとの懸念を表明した(福岡高裁平成4年2月28日判時1426号85頁)。
(3) 大阪高裁「公式参拝」違憲の疑いあり
 さらに,同年7月,前述した関西靖国「公式参拝」違憲訴訟の控訴審において,大阪高裁は,@靖国神社は,教義を広め,信者を教化・育成するための宗教施設を有する宗教団体であること,A宗教団体であることが明らかな靖国神社の本段や社殿において,参拝をする行為は,客観的には,宗教的活動であるとの性格を否定することはできないこと,B衆議院法制局長等の政府機関もかつては,公式参拝は違憲であるとの疑いを否定できないとの統一見解をとっていたこと,C本件公式参拝時ないし口頭弁論終結時においても,公式参拝に対


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しては,強く反対するものがあり,未だ,公式参拝を是認する圧倒的多数の国民的合意は,得られていないこと,D公式参拝が行われた場合のわが国内外に及ぼす影響は,極めて大きいこと,E現に,本件公式参拝に対し,国内では宗教団体や市民団体その他から抗議の声明などが多く寄せられ,外国からも,中国をはじめ,フィリピン,シンガポール,南北朝鮮,香港などから反発と懸念が表明されたこと,F本件参拝行為は,一回限りのものとして行われたものではなく,将来も,継続して,公式参拝をすることを予定してなされたもので,単に,儀礼的,習俗的なものとして行われたものとは,一概に言い難いこと等を事実を認定した。
 その上で,「社会通念に従って考えると,昭和60年当時におけるわが国の一般社会の状況の下においては,被控訴人中曽根の行った本件公式参拝は,憲法20条3項所定の宗教活動に該当する疑い」と判断したのである(大阪高判平成4年7月30日判時1434号38頁)。
(4) 公式参拝については違憲判断
 総理大臣の靖国公式参拝の違憲性を争う訴訟において,多くの場合に違憲判断を示す判決が確定しており,逆にこれを明確に合憲と断じた判例は存在しない。
 むしろ,多くの判決は憲法判断を回避しているものの,ひとたぴ憲法判断に踏み込んだ場合,その判決の要旨を見ると,あるものは明確に公式参拝を憲法違反であると明示し,あるものは違憲の疑いが強いと指摘し,あるものは継続すれぱ違憲との判断を下している。すなわち,ニュアンスの違いこそあれ,いずれも総理大臣の公式参拝が憲法に違反する可能性を示唆しているのである。
4 最高裁大法廷,愛媛玉串料住民訴訟違憲判決
 1(6)で前述した愛媛玉串料違憲訴訟については,最高裁は,15人中13人の多数意見により,玉串料等の支出を違憲とした一審判決を是認する判断を示し,原判決中これと異なる部分を破棄した(最大判平成9年4月2日判タ940号98頁)。
(1) 玉串料等の支出は,特定の宗教との過度のかかわり合いとなる。
 最高裁は,@例大祭,みたま祭における玉串料,献灯料又は供物料は,いずれも靖国神社又は護国神社が宗教的意義を有するものと考えているものであること,A神社自体がその境内において挙行する恒例の重要な祭祀に対して玉串料を奉納することは,時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し慣習化した社会的儀礼に過ぎないものになっているとは言えないから,一般人が,本件の玉串料などの奉納を社会的儀礼の一つに過ぎないと評価しているとは考え難いこと,よってB玉串料などの奉納者においても,それが宗教的意義を有するものであるとの認識を持っていたはずであること,C本件においては,他の宗教団体の挙行する同様の儀式に対して同様の支出をしたという事実が伺われず,県が,特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定する事ができないことから,「一般人に対して,県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており,それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる


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特別のものであるとの印象を与え,特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない。」と判断している。
(2) 戦没者の慰霊及ぴ遺族の慰謝は,世俗的目的として是認されるものではない。
 また,最高裁は,靖国神社及び護国神社に祭られている祭神の多くは第二次大戦の戦没者であって,その遺族をはじめとする県民のうち相当数が戦没者の慰霊を望んでいること,それが故人をしのぶ心情から欲している場合もあること,そのような希望に答えるという側面においては,本件の玉串料等の奉納に儀礼的な側面があることも否定できないと,被上告人らの主張に配慮しつつも,「そのことのゆえに,地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが,相当といえる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない」と明言している。
 すなわち,政教分離規定を設けることに到ったのは明治維新以降の国家と神道の密接な結合による種々の弊害を鑑みた結果であること,戦没者の慰霊及び遺族の慰謝自体は,特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくともこれを行うことができること,本件玉串料などの奉納が,香典やさい銭とは社会的意味が異なり,慣習化した社会的儀礼に過ぎないとはいえないことから,「本件玉串料等の奉納は,たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても,世俗的目的で行われた社会的儀礼に過ぎないものとして憲法に違反しないということはできない」という考えを示した。
(3) 結論
 その上で,本件玉串料等の奉納は,その目的が宗教的意義を持ち,その効果が特定の宗教に対する援助,助長,促進になると認めるべきであり,憲法20条3項の禁止する宗教的活動に当たると,違憲判断を下したのである。
 なお,上記多数意見以外を述べた裁判官のうち,3名は異なる理由により政教分離違反との判断をしているのであり,反対意見は僅か2名にとどまる。よって,最高裁判所判事15名中13名が違憲判断をしたことになる。
 このように,愛媛玉ぐし訴訟の最高裁判決では,戦没者の慰霊及び遺族の慰謝を直接の目的としてなされた行為であっても,社会的儀礼に過ぎないとは断定することができない旨示した上で,玉串料の支出は宗教的意義を持ち,県と特定の宗教との過度のかかわり合いを示すものとして,違憲判決を下した。これは,戦没者の慰霊及び遺族の慰謝という名目によって,政教分離原則が骨抜きにされることを許さないという最高裁の決意を示していると言えよう。

第3 結語
 以上見てきたように,司法は,公権力と靖国神社との絆を復活させる国・地方公共団体の行為に対して,一定の限度はあるものの,警鐘を鳴らし続けていたのである。
                                                       以上


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